自分が廃墟好きになったきっかけは、とあるテレビ番組。
今から十数年前になろうか…その番組では、かの有名な伝説的廃墟「小曲園」を特集していた。
もしかしたら心霊現象を扱った心霊番組であったかもしれない。
はっきりとは覚えていないが、小曲園が出てきたのは間違いない。
そこで出てきた映像の中で、小曲園の中にあったというドリームパブ「アバ」。
そこが映った瞬間、自分の中の何かが揺れ動いた。
誰もいない、既に頽廃したホテルの一角である。
普通ならば、荒れ果ててただ見苦しいだけの景色かもしれない。
けれども、自分の中ではその景色が芸術的に見えたのだ。
何というか……芸術的な絵画を見ているような、非現実的な世界が自分を魅了した。
一面ガラス張りの部屋に点在する鴇色の椅子、窓の外に臨む深緑色の木々の葉、蔦。
その色彩の魔術にすっかり魅了され、頽廃的な静寂の空気に圧倒された覚えがある。
それ以来、街や観光地などで廃墟や廃屋を見かけると、じっと見つめるようになっていた。
その景色、空気を少しでも脳裏に焼き付けようとして。
今ではカメラという文明の利器を最大限に利用し、その美しさを少しでも撮り留めようとしている次第である。
廃墟の魅力と言って、まっ先に出るのがその虚無感・哀愁であると思う。
嘗ては人の営みのあった建造物が、すっかり誰からも見捨てられ、ただ自然に還るのを待つ。
自然に包括されゆくその姿が、廃墟の一番の魅力であると思う。
誰もいない、その空間に立ってみればそのことがよく分かる。
聞こえてくるのは自然の音だけ(立地によっては人工物の音も聞こえる場所もあるが…)。
風の音、鳥の声、虫の声、波の音、川の音、雨の音、木々のざわめき……。
自分以外誰もいない……その虚無感が味わえる最高の場所…それが廃墟なのである。
二つ目に、廃墟内に残る遺留品も実に興味深い。
当時の新聞や雑誌、テレビや冷蔵庫といった家電、家具や調度品……。
今となっては入手も困難な、昔使われていた道具類を当時のまま残す……それが廃墟という空間。
一歩足を踏み入れれば、当時にタイムスリップしたかのような錯覚に陥るのも魅力の一つ。
時には学術的にも貴重な一品に出会えることもあるかもしれない。
廃墟になったからこそ残された、そんな品々があるのもまた事実。
それらを見つけた時の興奮は、懐古主義者でなくとも味わえることと思う。
廃墟の魅力を感じるのは人様々である。
が、上記の2点が廃墟における魅力であると思っている。
もっと色々魅力がある、と言う方もいるだろう。
侵入する時のスリルがたまらないという人もいるかもしれない。
廃墟を色々調べて、その土地の歴史や廃墟自体の歴史を調べるのが好きな人もいるかもしれない。
それらも廃墟の魅力の一つであるが、個人的には上記の2点、そこを重視している。
廃墟……その言葉で、その空気を味わい、遺留品を見、廃墟の全景を写真に収める……これが自分の廃墟スタイル。
廃墟を見たり空気を体感するあの感覚……それを分かり易く言えば形而上絵画に似ている感覚ではないか、と思っている。
形而上絵画……ジョルジョ・デ・キリコが創始である絵画様式。
デ・キリコの代表作『通りの神秘と憂愁』を見た瞬間と、感覚がよく似ている。
タイトル通り、憂愁・哀愁を感じる……この感覚こそ、廃墟における感覚ではないだろうか。
この作品は頽廃感、そして不安感を見る者に与えると言われている。
個々人、感じ方は違うとは思うが、少なからず廃墟の頽廃感・不安感がこの憂愁・哀愁と結びついているのではないだろうか。
自分が廃墟探索を行う際は、必ず2人以上で行くことにしている。
知っての通り、廃墟には必ず危険が伴う。
他の方々の廃墟サイトでも、その様々な危険性が啓蒙されている。
そんな危険な場所へ、一人で行く勇気は持っていない。
なので、必ず2人、または3人で行くようにしている。
何かあった場合、助け合える仲間がいないこと程怖いことは無い。
また、大人数での探索も、いいものではないと思っている。
廃墟に何をしに行くか……上述のその場の雰囲気を味わう為に行くのに、大勢で行ってもその楽しみは半減してしまう。
無駄な音や話し声が聞こえない人数、それは3人が上限だと思っている。
4人ならば大抵の場合、2対2に別れてしまい、自分以外の話し声も聞こえてきてしまいかねない。
それ以上では雑音の嵐になる可能性が大。
そんなことでは廃墟は存分に楽しめない。
そういうわけで、廃墟は2人または3人で行くのがベストだと思っている。
まあぶっちゃけ、友達が少ないんで必然的に2~3人になってしまうんですけどね(笑)
そして、廃墟探索時のルールとして、以下の『3ない』を実行している。
遺留品は、破壊しない、動かさない、持ち帰らない。
まず、遺留品を破壊しない、これは論ずる必要も無いと思う。
動かさない、これは通行上やむを得ない場合など動かすことはあるが、必要以上に動かすのは厳禁。
廃墟は、自然に朽ちた姿が美しいもの……人の手が加わって朽ちた姿は、時に芸術性を破壊する行為にも繋がる。
自然美を、ありのままの廃墟の姿を遺しておきたいものである。
そして最後の持ち帰らない。
これももはや論ずることも無いであろう。
たとえどんなに貴重な、手が出るような遺留品でもそれは廃墟の一部。
持って帰れば犯罪になる、そして何より廃墟の魅力を削ぐ行為となる。
なので絶対に遺留品は持ち帰っていない。
ただでさえ、無断の廃墟探索は罪の意識があるのに、更に罪を重ねる真似はしたくないですしね。
廃墟マニアと呼ばれる人々の中にもいろんなタイプがある。
廃墟界のパイオニア、栗原亨氏の著書「廃墟の歩き方2 潜入篇」にもその分類がされている。
調査探索系、写真芸術系、破壊系、落書き系、サバゲ系、肝試し系、心霊系と。
自分は無類の心霊好きでもある。
民俗学的な面から見た学術的心霊現象から、心霊写真・心霊動画といったサブカル的な心霊現象まで、兎に角心霊物は大好き。
けれども、廃墟においてはその嗜好をいつも乖離させている。
早い話、廃墟は廃墟、心霊は心霊と、完全に分けて考えている。
いわく付きの廃墟において心霊現象が起こり得る、そう思うが、廃墟巡りと称して廃墟を訪れる際は、心霊現象とかは別に何も考えていない。
その時はただ、廃墟の空気感を味わい、廃墟の魅力を写真に収める、そのことだけを考えるようにしている。
廃墟に、心霊は必要無いなので肝試しなんかも廃墟では実施することは無い。
また、サバゲもたまに嗜むが、廃墟においては行わない。
廃墟を破壊する行為にも繋がるので、廃墟では絶対にやらないようにしている。
廃墟は神聖な場所、常にその意識をもって、写真に収めることに重点を置いた写真芸術系だと、自分では思っている。